私の「面白い」

私の「面白い」

読んでくれたら嬉しい。共感してくれたらもっと嬉しい。でも私のために書きます。

寝ている間に…(2)

誕生日プレゼントは大学の課題の山という現実から逃避するために、またブログに舞い戻ってまいりました…

そういえば、ドラえもんって睡眠を題材としたものがちょくちょくあるよなぁ、と。当然、のび太の特技の一つが早寝0.93秒とあるように睡眠が一つのフックとして働くことはあるわけだけど、、、今思い出すのは、「夜の世界の王様だ!」より、眠くならない薬。

 

初めてドラえもんの眠くならない薬の話を読んだ時に比べて夜の意味合いは変わった。当時は徹夜なんて大人しか許されないことだと思ってたし、夜自分が起きていない間になにか想像もつかないことが起きているんじゃないかと本気で思うこともあったわけで。夜の特殊性は今以上にずっと強かった。そこに踏み込む夢のような(この話の流れで”夢のような”ってなんかややこしいな…)道具が眠くならない薬だったわけだ。が、今思うとある種そんなの覚せい剤だよなぁと。。一昔前、映画サウンドオブミュージックの撮影のころなんかは子役に平気で覚せい剤を飲ませていたなんて話も聞くわけで、、時間に対する人間の憧れは思いのほか強いものなんだなと思ったり。
「夜の世界の王様だ!」では、副作用や依存性の恐ろしさではなく、夜だからと言って時間を有効活用できるとは限らないという教訓の方向に持って行って話を終わらせるのだけど、のび太の最後のセリフ

 

「あったかい布団でぐっすり寝る!こんな楽しいことってあるか!!」

 

のび太の名言として記憶している人も多かろう。

確かにぬくぬくするのは幸せだ。。でも、きちんと布団で寝られる日常を送っているという安心感こそこのセリフの真意なのではなかろうなどと思ったり、、、

そういえば、ドラえもんの道具には服用するタイプのものとそうでないものがある。薬と言えば効き目が有効な時間に制約があるというを暗に意味するという効果があるわけだけど、明らかにデバイス的な秘密道具でいい機能を薬という形で表現しているものもあるわけで…。「ヘソリンスタンド」も比較的麻薬的な道具でこちらは対象年齢が高い(※)話なだけ、比較的わかりやすく反違法薬物的主張が込められたストーリーになっている。一方、「夜の世界の王様だ!」ではわざわざ効き目を消す薬を処方してもらう描写を入れるあたり、ヘソリンスタンド同様、薬という描写に"効き目"以外の意味を持たせていたのではないかなぁとも思う。聡明な藤子・F・不二雄の創作力を思えばそのくらいのことは考慮されていて当然だろう。極力薬に頼らない日常を送っていかないとな…

ドラえもんは小学校低学年から高学年までの雑誌ごとに明確に対象年齢が分けられていて、ドラえもんのび太の身長を比べるとおおまかに対象年齢が想定できる。


でも、それ以前に。勉強に追われて寝たくないなんて元来もったいないほど贅沢な話なんだよな。よし、勉強に戻ろ。。

寝ている間に…

名作とは、

名作という言葉以外の言葉を付け足しながら解釈することでかえってその言葉の群から外れた要素によってただ鑑賞するよりも解釈が劣ってしまうような、完璧に解釈するなららその作品を隅々まで味わうしか手段が無い、というようなもののことを言うのではなかろうか。

あえて言葉で説明しなおすことがはばかられるようなものを言葉にして紡ぎなおすというのは愚か者のすることではなかろうか。

 

今回は、そんな愚かなことをしていくわけで…(まぁ、いつもしているか…)

名作の定義は数あれど、その一つに、「見る年齢によって解釈が変わる」というものがある。作品の中に投影する自分の取捨選択の幅が人生がより長くなっていくにつれて増えていくことがその原因だろう。

 

年上の映画好きの人々によると、「今みたいにエンタメがあふれてなかった頃に見たあの感激は近頃の若者にはわかるまい」とのことなのだが、それに対して僕の言い返しは「5歳のころにトトロやオトナ帝国を見たあの時の感想は御老人方にはわかるまい」である。ほかにものび太が骨身を削って貯めた小遣いで購入したラジコンボートをスネ夫のラジコン戦艦に一瞬で沈められたときに「スネ夫を殺して僕も死ぬ!!」と言ったそのセリフに、100%共感した小学生の時の感想と、今読み返してギャグとしての側面を読んだ感想、その両方の感覚を持っているこの感覚は、御老人方にわからなかろうと言った具合だ。


最近、感想の変化を感じた話はグリム童話の「小人と靴屋」である。ドラえもんの道具にもあった。寝ている間に靴を作ってくれてしまうという話。。初めて読んだときは”夢のある話だ”程度にしか思わなかったし、それこそドラえもんのように空を飛びたいとか遠くに行きたいといった子供の妄想の延長にある程度にしか思わなかった。。それが今ではどうだろう。この話は納期に追われた作家が徹夜続きの中で苦し紛れで紡ぎだした話ではないだろうかなどと思ってしまうのだ。そういう観点で見れるようになったということは、僕も大人側になったんだなぁなんて思ったり、いや、課題程度に追われる情けない人間でしかないぞと悲しくなったり…

 

グリム童話はグリム兄弟が編纂した昔話集だからそんなことはないのだろうし、むしろ寝たがらない子供に寝ることを魅力的に映そうとしただけということも十分にありうる。が、正直今の僕には笑えない話である。。

さぁて、現実逃避のためのブログ更新もそこそこに、大学の課題に戻らなくては。

女みたいな気配りの話。

この男女平等の時代にこのタイトルは自分でもどうかと思うのだけど、今朝見た夢の話を。

夢と言っても思い出に近い話で、多分8歳とか9歳ごろの夏休み。
家の前で工事をしていて交通整理員のおじさんがが真夏の暑い中、分厚い作業着とヘルメットで立っていた。工事員の人は昼休憩の最中のようだけど、交通整理員のおじさんは立ちっぱなし。うちの前の道は別に車通りが多いというわけでもなし。一緒に休んでお昼ご飯を食べればいいのにとも思ったのだが、大人の仕事事情は知ったことではない。
そんなときふと、2,3年前に(だから5,6歳のころ?)母が似たようなシチュエーションで家の前で我が家と全く関係ない工事をしている人に冷たい麦茶ふるまっていたことがあったのを思い出した。僕はそれをカッコいいからいつか使ってやろうと企んでいたのだけど、今がまさにそのチャンスである。ちょうど、今、我が家の冷蔵庫には兄が帰ってきた時に飲むように作っとけと命令されて作った麦茶と製氷機には氷がある。これを交通整理のおじさんと休憩中の人とに配れば大人に気配りするという大人の真似事もできるし、正当な理由で兄に嫌がらせもできて一石二鳥だ。
食器棚からせっせことお盆とコップを取り出し、氷と麦茶を注ぐ。氷と麦茶の在庫はちょうど切れる。しめしめ、これで作り直したところで兄は氷無の薄い麦茶しか飲めない。複数のコップの乗ったお盆を持つのは苦手だったけどよたよたと運びながら、まず交通整理のおじさんに、そして休憩中のおじさんたちにお茶を配る。休憩中のおじさんたちのコップを回収し、帰り際に交通整理のおじさんのコップを回収。
その時に交通整理のおじさんにこんなことを言われる。

「君は女みたいな気配りができる子だねぇ(笑)」

おっと、これは大人な会話をするチャンス、
「ただの母のマネです。それに、最近はこういうことができないとおじさんの周りにいるような気を配ってくれる女の子にはモテないんですって。。」
キマッた。。。

数十分後、帰宅した兄に麦茶もろくに入れられねぇのかと嫌味を言われると…


こんな話。



 

思い返すと我ながらいけ好かねぇガキである。このセリフを吐いた当時は映画みたいな(これもよくわからんが)ひねりある言い回しで大人びたことを言ってみたかったというのが大きくて、別に言ったこと自分の本心がどれほど含まれているかなんて大した問題じゃなかった。

かくいう大学生の今の自分は、自分の中に何か差別的な発想があることを自覚するような状態。別に女みたいな気配りとやらを男がするのはカッコ悪いとはこれっぽっち思わないしそれがカッコいいなら推奨されるべきだとは思う。が、"女みたい"とか"男みたい"といった概念自体は十分存在するものだと思っているし、そのこと自体を否定するような無差別主義者には違和感を禁じ得ない。正直、男女平等とかは時代の流行りだと思っているし、局所的に男尊女卑ならぬ女尊男卑みたいなこともまれに感じてしまう今日この頃である。こんな夢をいまさら見て、なぜこんな引っ掛かるのかもイマイチぴんと来てはいない。多分、夢の中と同じ出来事が今の僕に起きたら、冗談として8歳の僕と同じことを言うような気がする。10年以上たって同じセンスというのも大変情けないが、これは今年年男になる僕が発することとして成立している冗談なのか、はたまた反時代的な冗談なのか。。

と、ここまで冗談として成立しているかの是非を考えてしまっているのだが、どうもここ最近の僕のSNS下手くそ具合から鑑みるに冗談の可否以前にここで何か大人びた上手いことを言ってやろうという発想自体が世の中のどこにも需要がないことだと思ってもみたり、、、



何か一つ文章にしたためるぐらいには考えがまとまったなと思って書き始めたけどやっぱなんもまとまってないなこりゃ。

いや、かぶるよ?

如何に自分がこのブログによる発信に対して真摯ではないかということを露呈しているに過ぎないのだけど、書こうと思った内容がかなり既に書いた記事と被ってる。我ながら普遍性のあることを書いてきたなと自分に対して舌を巻く、、というのはホントにどうしようもないただの自画自賛なのだけど、、、

ではどのようにしたら過去と被らない物が書けるのかと考えてみると、本当に今起きていることのみを書き連ねてくという手段しか浮かばない。。。そして少なくともそれは僕のやりたいことには向いてない。

人様に発信できるような事ばかりが毎日起きている日常かというと情けない話決してそんなことは無いし、少なくとも日常が日々新しい事で満ちているなどと言うような観点で捉えられるほど感性に飛んだ五感を持ち合わせているとは言い難い私である。大学生であるだけにわかりやすく個人的に常に変化、進化していることとして勉学が挙げられるといえば挙げあられるのだが勉学のの進捗に関してのみ書いていくというのは個人的にはあまりに面白みに欠ける。学校で習っていることといえば、学部生であるうちは少なくとも既に先人が作った道をなぞっているに過ぎないからだ。勿論先人が作ってくれた道を先人と同じように歩むことができるのが科学の偉大さだし、そこに意義を感じて理系の学問に進んでいるのだから、そのこと自体に不満は一切ないのだけど、こと、「面白いブログ(しかも自分基準で)」を書くという事に関してはいかんせん向いていない。だって、もっと上手に解釈してアウトプットしている先人がいるのだもの。Qiitaをはじめとして世の中には教えることに特化した媒体があるのだからそこに参戦するという手段もあるのだけど、それは正直個人的に時間を割いてまでやろうと思えるかというとそんなことはない。

僕がやりたいのは「え、わざわざ世の中をそんなひねくれた見方してるの?」と未来の自分に言ってもらえるものをつらつらと書き連ねる

事なので、真摯で真面目な内容は真摯で真面目な人がやればいいと思うのだ。

ここまで長く文字を連ねて何を言いたいかというと(←このまとめ方好きだな、僕)要は自分の発信したことまともに覚えてないので似たような記事を作る可能性大っていう先手必勝の言い訳です。

経ったねぇ一年。。。。

サボりもさぼったり丸々1年。。。

 

どこから綴ったらよいかもわからないのだけどまずは一つお礼から。こんな辺境にも等しいブログ。更新をサボっていたのにも関わらず実はじわじわとアクセス数が増え続けるという(読者ボタンを押してくれた方はいないのだけど、まぁ、その努力をしていないので当然か。)…
あまり読者数を伸ばすための勉強はしていないのだけど、これは開設期間が延びると当たり前の事なのか?にしても、

 

ごめんなさい。と有難うございます。

 

この二点は記しておかねばなるまい。実はこのブログ、更新はされ続けているんですよ。公開していないだけで。

それ日記じゃんと読者の方はおっしゃるかもしれない。そう、おっしゃるかもしれない。しかし公開してないのにもかかわらず、まぎれもないブログである事は実は確かで。コメントとか来るしね!、ぼくから
と、まぁ僕の奇人ぶりはこれくらいにしておいて。

真面目な言い訳、屁理屈をこねると、

 

「発想が偏るのが怖かった」

 

という理由が挙げられる。

ブログを書いたときにしかできないような年齢に左右される発想、気づきを記録することが僕にとってのこのブログの意義なのだけど、このコロナのご時世で、気づきのキッカケになる人や物事に触れる機会がぐっと減ってしまった。そんな状況で無理に文字を連ねると、既に自分に出来上がっている考え方を繰り返しアウトプットすることになってしまって、自分の考えが凝り固まる方向にこのブログが作用してしまうんじゃないかという危惧が出てきた。それが怖かったしこのブログの更新が止まった時点でその兆候が出始めていた。というのが真面目な言い訳。単純にネタ切れが原因だったともとれるのかもしれないけど。

だから公開していないブログはこんな中でも出会った気づきをメモしていたにとどまっている。

ただ、AfterコロナでなくWithコロナの時代を生きなくてはいけないのだとしたら、こんなご時世でも発想はしていかなくてはいけないという事になる。事実、コロナでも気づきはゼロにはならなかったし、それを展開して新たな気づきにすることもできるという事もとなくわかり始めた。(だとすると、1年前までの毎日更新は一つの気づきを引き延ばしていただけで、それすらもできなくなるくらいのネタ切れになっていたということになるのだけど、それは置いておいて。)このタイミングで更新を復活させる気になったのが何故だかは具体的にはわからないし、更新も毎日とはいかなっていくのだろうケド、まぁできる範囲で頑張ります。という、自分に対する決意表明です。それもすぐに明日からというわけにもいきませんでして、、、

 

当方大学生、今年は大学受験に大きな変化があったことなんぞに気を留める余裕など一切ないほど単純な課題に追われております。

ブログ更新、春休みごろから復活するかもしれない。。しないかもしれない。。。

(とりあえず今は前向き。あと三分くらいはこの前向きも続きそう。)

 

お粗末!

最も正確で誠実な回答

最近、自分が能力的に即答できない機会にあうと、相手が聞いてくれそうな時間内に自分に想定できる範囲の事を言った後で、「わかりません」とか「明言できません」答えた上で、「多分こう言うこと自分ができる中で最も正確で誠実な回答です。」という言葉を付け加える、というシーンがしばしばある。
間違いではない。でもこの言葉は便利で中毒性がある。多用しては絶対いけない。そもそも誠実さとは行動で示すものだ。言葉にしなければ伝わらない誠実さが本当に誠実であるということは少ない。
考えもせずに言っているわけではないのだけどできの悪い政治家みたいで自分で自分が気持ち悪い。

僕の能力の範疇を超えた機会に合うということは、少なくとも周りが僕にそれだけの能力があると思って接してくれているということに他ならない。理想は「その答えは○○です!!」と即答することであるはずなのだ。

「この情報とこの情報があればお応えできます。」とか「何時までにちゃんと答えられるように自分を磨いておきます!」って言えるのがいいのだけどそれすらもできないことがマチマチ…

やはりに人間、生涯修行、精進が必要であるということなのだ。これが多分今の自分にとって最も正確で誠実な回答かなぁ。

良い話の後に、「胸に手を当てて考えてみて下さい」ってやつきらい

僕が子供だからいけないのか!?

 

こっちが感傷に浸ってる時に偉そうにこういうことばを付け加えるやつ嫌い。ホント嫌い。

 

いったい幾つになったらこういう風に思わなくなるのかてんでわからない。

 

良い話をしてやった側に立って、してやった感を味わいたいのだとしか思えない。こっちが感動しているのは話の内容にであって、話を提供しているお前にじゃない。無粋極まる。

 

小学生の時の道徳の授業が大っ嫌いだった僕に偉そうに抗弁垂れる先生は大抵このタイプだった。道徳の授業をすることでいじめが無くなると本気で思い込んでる浅はかなタイプの人間。不良を矯正することに愉悦を覚え、不良の演技を真に受けて、あしらわれてるだけという事実に気付きもしない。そもそも「胸に手をあて…」の抗弁をまともに聞いてる(ふりをしている)連中がもれなくいじめっ子側であることに気づいてない。そういう先生。

 

当時の僕は道徳の教科書もこういうタイプの先生も全員子供をなめてかかっていたとしか思えなかった。下手くそな演出のお涙頂戴ストーリーを「最近の子供は…」みたいなのを付け加えて押し付けてくる。子供は知識がないだけで知恵はあるし、大人の作り話を見抜く目立って持ってる。思い通りに騙されない子供に対して、「素直じゃない」ってそりゃないだろ。

 

ホント嫌い。