私の「面白い」

私の「面白い」

読んでくれたら嬉しい。共感してくれたらもっと嬉しい。でも私のために書きます。

まだ、続いています(2)

科学(特に数学)は、条件さえ整えば恒久的に再現性が保たれる。これが最大の特徴であり魅力だ。新たな科学は作り出されたものでは無く、うまい具合に気づく「発見される」ものであるから、だれが発見したのかなんてことは、極端な話、全く知らなくても科学の文化そのものは発展させていくことができる。条件の整え方さえ記録されていればいいのだから。事実、ノーベル賞受賞者の名前とか、エジソンとかみたいな、あまりにも天才すぎた人ぐらいの名前しか知らないし、エジソンの名前を知らなくても、設計図さえあれば電球は作れる。ノーベル賞受賞のニュースすら知らない、新聞を読まない学生は僕の周りにはいくらでもいる。

よく、先人の教えを学ぶときに、「足跡をたどる」というような比喩表現をされる。
科学においては、だれが付けた足跡かは全くいらないということにあたるだろう。足跡さえあればよいし、行き先が正しいと断定されたとたん、けもの道が一気に舗装された道になり、劣化もしない道になる。ということになるのだろう。科学がそういうものというよりかは、そういう特徴を持ったものを科学と呼んでいるというのが正しい順番なのだろうケド。

一方、僕の好きなエンターテインメントは絶対的な正解はない。だからこそ、監督名や作家名、場合によってはシリーズ名などでたどっていくことが多くなる。誰の足跡かということが(ある意味不確かな文化だからこそ)大切になってくるし、行き先の指標になってくる。と。まぁ、そんなところだろう。

面白くもないブログを読んでもらえたという事実に喜んでいるような無駄に自尊心が強い僕のような人間は、本来科学の道は向かないのかなぁなんて思ったりする。理系学生なんだけど。

 

 

続く