私の「面白い」

私の「面白い」

読んでくれたら嬉しい。共感してくれたらもっと嬉しい。でも私のために書きます。

日本語に生まれた不幸(3)

でも、こと情報社会においては、利用者数が正義の世界。日本語の立場の弱さをしっかり自覚して、謙虚に学んでいかなくてはいけない。

 

共感の為の悪あがきのコーナー

僕のパソコン仲間にキーボードのキー配置をオリジナルで極端に変えてしまっている人がいる。ただ、スペースやバックスペースぐらいだったらまだしも、日本人が文字のキー配置まで変えてしまうのはかなり危険な行為に思えてならない。確かに、日本人向けに作られたものでは無いので、母音の位置が不自然に散っているというのは理解できるし、そうでなくても日本語を打ち込む上でいくつかの不合理は感じられる。しかし、キーボードのキー配列の歴史を読み解くと、英語におけるアルファベットの使用頻度をもとに並べられているなんて背景があったりする。自分が英語の環境下で仕事をしなくては行けなくなった時に自分独自のキー配置に慣れてしまうというのはあまりにリスキーだ。英語環境に限らず、プログラミング言語は基本的にアルファベットと英単語から成るわけで、やはりキー配置の変更に利点は少ない気がする。

英語が得意なうえでそのようなカスタマイズをするならわかるけど、英語を最も苦手とするその友人が誇らしげに自分のキー配置の利便性を説いている(しかもかなり主観的な理由で)その姿はなかなか同意できなかった。

日本語に生まれた不幸(2)

サンプルが多いということは使われる機会の多い言語ということだから需要もあるということ。日本語なんて英語や中国語に比べたらサンプルも需要もほとんどない。

AI将棋が強くなったのはAI同士の勝負でサンプルを増やしたから。しかし、この記事を書いている現時点では言語においてはこの手段は用いることができない。というのも、言語を機械にとって最適化してしまい、人間になじめない言語を完成させてしてしまうという現象が起こるからだ。つまり、多くのサンプルを用意できる言語和者数の多い言語がそのまま発展のしやすさに直結するということになる。

 

今後日本の人口は減少する一方。日本語でコンピュータと対話することの価値なんてどんどん落ちていくに違いない。

 

日本語が言語として英語に劣っているとは思わない(まぁ、厳密には劣っているから言語話者数の違いに現れるのだろうケド、それはまた別の話。)。日本語独特の表現技法や、日本特有の気候や日本文化特有の物の捉え方なんかは日本語が最も適しているに違いない。それに変に全世界にの人に使われるようになってしまった英語は、もともと英語が持っていた英語圏独自の文化的な表現が薄くなってしまっている…なんてことはきっとあるはずだ。

 

日本語に生まれた不幸

何をいまさらと言われるかもしれないが、その通り。

 

何故今頃こんなことを思ったかと言いますと、情報技術が言語的な格差を広げていると急に思ったから。

人生で初めて英語の長文をワードプロセッサで書く機会があったのだが、書きやすいのなんの。漢字の変換は要らないし、スペースキーによる空白が多いので、親指のホームポジションが左右共にスペースバーにあることや、スペースバーが長いことだってとてもよく納得できる。変換キーもまぁ使う機会が無い。冷静に考えればタイピングのツールは英語圏の人が開発したのだから当然なのだけど。もちろん漢字などないから、読めるけどかけないなんてことは日本語に比べて極端に少ないのだ。僕は手書きで英語の長文を書くときは筆記体で書くのだが、近い将来誰にも読んでもらえなくなる気すらしてくる。逆に英語圏向きに開発されたものをここまで日本語向きにローカライズしているという事実に改めて感動したりしたりするくらいだ。スマホフリック入力なんてほんと天才だと思う。

 

 

他にも情報社会における言語の格差を拡大している要因に機械学習があると思う。

例えばAIの音声認識。AIには学習が必要で、(一概には言えないが)サンプルが多ければ多いほど良い性能のAIができる。

 

馬鹿には馬鹿なものすら作れない(4)

ジョー軍のお目見えシーンの一連の流れ(インターセプタ―→マックスの顔のアップ→輸血兼鎖→ニュークス→スリット→ニュークスカー加速→ドゥーフワゴン背部のドラム(BGMでのドラムの音量増大)→ドゥーフワゴン越しの軍の全貌→再びアップでドゥーウォーリアソロ(BGMのギターソロ!!)→ギガホース)はおよそ三桁は下らない回数観ているが、未だに鳥肌が立たないことはない。

ビジュアルと機能の両立という作家性を残しつつもどう考えても馬鹿な結果にしか見えない物なのに、核には必ず”本質”と”論理的必要性”がどっしりと構えている。マッドマックスはそんなものにあふれている。記号としての宗教観や、十字架的な意味でのハンドル、合掌を意味するところのV8ポーズ、念仏や万歳的な意味のV8の掛け声、先導者を意味する隻眼、隻腕。どこをとっても抜けが無い。

世の中の作品には本質は作者のセンスで担保されていながらも論理的必要性がないために嘘っぽさが際立ってしまっていたり、逆にビジュアルやデザインが革新的なのに本質を捉えていないからいまいち盛り上がらないかしっくりこなかったり、本質に論理性をこじつける為に長々と説教臭くセリフで設定を解説したり。そんなものはいくらでもある。マッドマックスほどスマートに完全な物をまとめあげた作品を僕はまだ知らない。


芸術的なまでに馬鹿な物は絶対に馬鹿には作れない。

馬鹿には馬鹿なものすら作れない(3)

崖の上のポニョ津波のシーンとか、ザック・スナイダー監督の映画『ウォッチメン』におけるベトナム戦争のシーンとか、『ブレイキング・バッド』でメスラボを襲撃に向かうハンクが歌い始めるシーンとか、アニメ『gate』での進軍のシーンとか、『ブラックホーク・ダウン』で武装ヘリが敵地に向かって飛ぶところとか。個人的に最も意外性があったのは、くれしん映画においてはじめて本編に”嵐を呼ぶ”の名がついた「映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル」で敵の元締めであるところのパラダイスキングがヘリコプターの操縦中に歌うところ。巨匠原恵一が子供向けギャグ映画でも有効だと判断したのか!!と少し驚いた(彼は嵐を呼ぶヤキニクロードでもキルゴア大佐のオマージュを入れるなどしている。好みなのかな?)。
このシーンは「進軍のシーンには音楽を!」という本質に「インテリ的オマージュと隠喩」というコッポラの作家性の一部を掛け合わせたものだ。

マッドマックスでこの「進軍のシーンには音楽を!」の本質に足されるのは「ビジュアル的インパクトとレイブ感」という監督の好みという作家性だ。結果的に出来上がるのはマッドマックス史における最高のイカれた車との呼び声も高い改造車「ドゥーフ・ワゴン」である。

 

続く

馬鹿には馬鹿なものすら作れない(2)

マッドマックスといえば荒涼とした砂漠で気持ちわるい格好をした人たちが変に改造した車にのって殺し合うっていう内容なわけだけれども、この映画を作っているジョージ・ミラーは実は秀才その物。映画監督になる前はお医者さんで、救急病棟に勤めていたっていう経歴があるくらい。少なからずその時点で、命や倫理の問題は一般の人よりも考えているに違いない。他にもマッドマックスにおいては神話というある種最もプリミティブな物語の在り方から組み立てて、生理的な気持ちよさとして変更してはいけないところを軸として一切ブレさせることなく、許された脚色の部分で存分に作家性を爆発させるという、、、、、もう、この、なんていうか、最高!!なわけです。

例えば、戦闘を前にした人間が自らを鼓舞するために音楽という手段を用いてきたという事実は、人間が歴史的に積み上げてきたある種本質的な物だ。例えフィクションであっても生理的な快感の為にそこをぶれさせてはいけない。
この生理を利用した演出で映画史の中でも屈指の戦争ものであるコッポラの「地獄の黙示録」では戦闘前にアメリカ兵たちが爆音で「ワルキューレの騎行」を流すというシーンがある。これは第二次世界大戦ヒトラー率いるドイツ軍が戦争報道をこの曲に合わせて行っていたという事実からきており、結果的に後の様々な作品たちにオマージュされている。
続く

馬鹿には馬鹿なものすら作れない

馬鹿とはどういったものを指すのか、定義が怪しい部分はあるのだが。

まあ、オタクが自分の好きな物をただ賛美するだけですよ。今日も。
僕の人生ベスト映画ランキング第2位。「マッドマックス怒りのデスロード」。
やっぱり何度見ても面白い。ホントに飽きない。ランキング1位の映画の3倍くらいの回数既に観ている。

馬鹿なんだよなぁ、ほんとに馬鹿なんだよなぁ。隙間なく馬鹿なんだよなぁ。天才的に馬鹿なんだよなぁ。


世の中の傑作と呼ばれるものに出会うと、「隙間なく馬鹿ってのはホントにすごいことだ」という感想を抱くことが多い。どうも世の中からはバカっぽい物を作っている人は馬鹿に違いないなんて思っている人が無くならないけど、僕から言わせればそんなのは大きな間違いだ。

本当に隙間なく馬鹿な物は、世の中の誰よりも常識をわきまえてなくてはできない。

理由は簡単。馬鹿なのか常識的なのかの区別をきちんとつけるということは、常識の範囲をきっちりわきまえているということに他ならないからだ。そこへきてのマッドマックスなんですよ奥さんっ、てなもんですよ。

続く