私の「面白い」

私の「面白い」

読んでくれたら嬉しい。共感してくれたらもっと嬉しい。でも私のために書きます。

メタメタな話

 吾輩はとあるコンピュータクラブ1回生である。あだ名はまだ無い。

 

 一部会員特有の、その人のステータスの高さを称えたかのような愛称を襲名するにはまだまだ精進が必要な身分である。要するに、「中身があることが書けない」と。

 「ないのなら学べ!学生だろ!」と読者の方はおっしゃるかもしれない。そう、おっしゃるかもしれない。ただ、上記の愛称の例を挙げてみると「ダークサイドのVimer」「プロのデザイナー」「社長」…とそうそうたる響きの数々。なかなか太刀打ちできるものでは無いというのが私の言い分である。そんな状況を打開しようにも、この会誌原稿提出の期限は残り5秒を切ったところ。太刀打ちできるほどの能力を獲得するための時間としては少々心もとない。

 そこで、まだこの場にふさわしいギークになり切れてない僕ができることは何なのか。「メタ的にこのコンピュータクラブについて書いてみる」ことなのではないだろうか、ということでタイトルの結論にたどり着いたというわけだ。

それに、「メタ~」って何となく響きがカッコいいし。

 

 

 そもそも「メタ」とはどういう意味なのか。

 

 広辞苑によると「超越すること、高次の」と出てくる。一般的に「メタ~」とは、メタの後に続く言葉自体をそのメタの後に続く言葉の手法で説明した言葉である。

 たとえば、「メタフィクション」とはフィクション作品内でその作品がフィクションであることを開設する手法を指す。作中であえて「これは作り話である」というような表現をしたりすることだ。今年度前期、当コンピュータークラブでは「プログラム意味論」を取り扱ったプロジェクトが行われた。内容としては、あるプログラミング言語で他のプログラミング言語を再現するためのプログラムを組むことというもの。要は、プログラミングでプログラミングを再現するというわけ。その通称が「メタプログラミング」であった。この段落では「メタ」という言葉を解説しているわけだから、メタメタな話というわけだ(←これは間違い)。

 さて、会員としての僕はいったい何について書くのか。もちろん所属しているコンピュータクラブについて書くわけだ。

 

 

 ようやく本題。

 

 案外組織というものは所属してしまうと見えなくなることが多い。私が入会した当初は奇怪に映った光景が今となっては違和感に思えなくなり始めている。恐ろしいことだ。初心を忘れぬための戒めとしても、私が入会した当初感じたこのコンピュータクラブを象徴するかのような事項を2つ、ここに記しておきたいと思う。

 

その1、当コンピュータークラブの部室

 我々の部室は建物外壁に面していない。要するに部室には窓が無い。部室前の通路を通さない限り外気が直接部室に入ることはなく、快晴の日の昼でも日光が差し込むことは一切ない。その環境に、大学の講義を終えた会員らがわらわらと集い、特に集会の予定が無い日であっても多いときは十数人がたむろうのだ。会員が部室から完全にいなくなる時間は連日深夜10時をまわる(最もその時間を深夜と思う人間が何人いるかは定かではないのだが)。入会して間もない頃、コピー機の前から徐に立ち上がる一人の先輩の姿を見た事を私は今でも覚えている。その人はたった一枚のその印刷物とセロテープを片手に、部室にある一つのディスプレイの前に向かい、印刷物をそのディスプレイの土台に張ったのだ。印刷部にある文字は「窓」だった。後に私はその先輩から一つの格言を授かる。

「エンジニア足る物、なければ作るのだ」と。

 

 その2、先輩の喧嘩

 先輩方は気さくな方が多く、部室でパソコンを開いているとひょいと覗いてアドバイスをくれることがある。その日も始まりは普段の活動時と同じだった。私が入会して間もない頃、私はあるプログラミング言語の勉強をしていた。そうしたら、先輩の内の一人が僕のパソコンを覗き、「なんだ〇〇なんかやってのか、こんなのプログラミングじゃない。△△の方がいいぞ」といった旨の言葉を発言。それを聞いた別の先輩が「いやいや、〇〇に比べたら△△なんて糞言語だね」と一蹴。あとは水掛け論。タスクごとのレスポンスはどうだのあるOSとの相性はどうだの。お互いどうも急所はあるらしくそこを突かれた時は「そんなの気合でなんとかなるだろう」ってな具合。口火の私は完全に蚊帳の外。でもその喧嘩を聞いていると、まぁ勉強になること勉強になること。先輩の偉大さを最も肌身で感じた瞬間の一つといえる。

外部の人からこの組織にについて尋ねられた時は、私はこれらの珍事を返すようにしている。

 

 

 ギークが徒党を組むときのあるべき形。

 

 私個人の見解ではあるが、このギークの巣窟は稀有な組織だ。特にいじめがあるわけでもなく、組織内の派閥があるわけでもなく、会員たちがやっていることは多種多様、そのレベルすらもまちまちなのに、互いに尊重しあい、教えあう空気がある。間違いなくオタクの組織として一つの正解の形なのだ。世の中には同じ種類の趣味を持ち寄っただけの集団は数多くある。それが俗にオタク文化と呼称されるような題材の下に集まったりしている場合は、世間からの共感を得られずに付いた傷を舐めあうだけの物も多い。

 

 が、まぁ口が悪い。一部会員の。

 他人の上げ足を見逃さずに必ず取り、一つあやふや手順を踏むだけで大概10の悪口が複数名から飛んでくる。手順を踏んだ側は迷いなく自分の行為の正当性を反撃のように言い返し、自分の意見と相手の意見が食い違えば罵倒に近い言葉のチョイスで意見をすり合わす。騒ぎを聞きつけた当事者でない人までもがその場に愉快犯のように入り込み、意見がどんどん割れて場は完全に荒れる。誰一人自分が間違っているとは思わないし、大概の場合それぞれの言い分は間違っていない。

 思うにアクティブなオタクは多くの場合口が悪い。なぜそのような現象が起こるのか。今の私の結論は、「コンピュータに関わっているから」だ。コンピュータほど絶対的な正解を持つものは少ない。より速いのが正義だし、同じ成果ならよりコンパクトなのが正義だ。意見に違いが生まれるとすると、より良いに目指す方法が違うだけで、「良い」は全員がある意味共有している。共有された絶対的な「良い」があるからこそ、そこに少しでも近いものを作り出せる人が間違いなく偉い。その「偉い」は、感情も、身分も、年齢も、境遇も一切が関与していない。人間というものの良さの一つは、他の生物が弱点や異常として排除してしまうようなところを個性や多様性という言葉に言い換えて認めあうことができることだ。それなのに、コンピュータというある種最も人工的な物はなぜか人間らしさと逆行している。ある意味、誰が正しいかを一発で判別してしまう。おかげでそれを扱う人間たちの表面上の、あくまで表面上の礼儀みたいなものをそぎ落としてしまうのではないかなぁと思ったりするわけだ。

 それが必ずしも良いわけではないけど、オタクの醸し出す独特の空気感として、私は結構好きだったりする。多少なりともこの空気に慣れ始めた身としては、むしろコンピュータ周りの人こそ人間らしく感じる時すらある。

 僕のつたない文章力で紹介したこのコンピュータクラブがどのように映ったかわからないが、悪いように映っていたら誤解を解かなくてはいけない。罵倒の声のトーンに悪意に類するものはかけらもないし、どちらにも必ず一理ある言い分があるし、相手の言い分は必ずしっかり聞いているし、本質的でない発言は最小限で、あったとしても笑いの為のボケくらいだ。(その笑いが伝わらないことも多いが)

 そしてなにより、言う側も言われる側も笑顔だ。