私の「面白い」

私の「面白い」

読んでくれたら嬉しい。共感してくれたらもっと嬉しい。でも私のために書きます。

ドラえもん 今の僕ver

昨日広げた風呂敷はこれから何度かに分けて畳むとして、今日は広げ損ねた分の僕の頭の中でくしゃくしゃっとなってるところを広げきってアイロンがけ出来ればと思って書く。

 

僕にとってのドラえもん。不満の解決策を提示する存在、一人でなく何人かを動かすような遊び場(コミュニティ)をつくる存在、課題を与える存在、悔しさや達成感を与える存在。僕の人生で最もこの課題を満たす存在とは。現時点での僕の人生から出せる答えはエンターテイメントだと思う。中でもゲームだと思う。

 

エンターテイメントは不満を和らげる。具体的な解決策をピンポイントで提案することは少ないが、日ごろの苦労や辛さを忘れさせて、時に生きる希望になる。エンターテイメントはコミュニティを作る。映画館、ライブドーム、音楽ホール、お茶の間のTV。それを核にして人々は集まる。エンターテイメントは課題を与える。登場人物のようになりたいと思わせることがあるし、自分の知らない社会問題を提起してる時もあるし、こんなに素晴らしいものを生み出す人が世の中にいるのかと思わせてくれる。素晴らしいものに出会うと達成感にも似た充実感がある。

 

ゲームはエンターテイメントの中でも、ぼく個人はそれらの効果が顕著にじられる。オフラインのゲームのコミュニティを作る力は凄い。最近はオンラインで世界の顔も知らない人の届き用のない記録に挑むこともできるが、僕は顔も知ったる友達と一つの画面を囲ってぎゃぎゃやったりするのが一番楽しい。いい記録更新中の友人を小突いたり、手で目隠ししたり、コントローラーのコードを外したり。ゲーム外で起こる人間のやり取り含めて楽しかった。そしてゲームは課題を与える。むしろ課題こそがゲームの本質といえる。クリアという独特の概念がゲームにはあるし、ストーリーという側面を持ち合わせるから、他のエンターテイメントのような気付きを与えることもできる。そのうえ他の多くのエンターテイメントと違ってあまりに顕著に人ごとの体験が変わる。そして、多くのゲームは達成感や悔しさを前提に作られる。問題解決能力はそれを目的として作られたない点や文化としての歴史の浅さからまだ低いけど。

でも、ゲーム機の母体はコンピューターなのだからゲームしかできななんてことはないはず。例えば、町内会の回覧板や、掲示板のような役割を持たすとか、何かの集会の進行や書記や幹事をやれるようにするとか、脳トレのや雑学クイズ、常識クイズようなゲームや勉強の成績をランキングにするようなことをやらせても面白いかもしれない。普段内気なあいつ、実はすごい成績いいぞ!?とか、常識クイズでいい点とれないから凄い点とってる近所の大人に聞いてみよう!とか、コミュニティ対抗で競い合おうとか、記録の更新記録履歴で一人暮らしの年配の人の安否確認とか、用事が少ない人の家から出る口実になったりとか。

 

僕の生まれた町内会は僕の小学校区内ではではかなり小さいところで、だからかわからないけどとっても大人たちが仲良かったという印象がある。僕の学区では町内会対抗運動会が毎年あって、規模の大きい自治体は昼食を外注して大量の市販のお弁当を食べていたりしたときに、僕のところは参加者みんながそれぞれ持ち寄って分け合ったりしていた。そういうことが起こるという事がとっても嬉しかった幼少期だった。

 

一人一つでなく、一家に一台でもない。一自治体に、一学校に、一部活に、一サークルに、一会社に。そのコミュニティに一つ提案をするようなゲーム機を超えたゲーム機。そんな存在、作ってみませんか?未来の僕よ。

 

 

共感の為の悪あがきのコーナー

 

Ghost in the machine

哲学者、ギルバート・ライルの提唱した言葉。「我思う、故に我あり」でご存知、デカルト心身二元論を否定するための言葉。身体という機械に心というお化けを入れたらそれすなわち人間なのか。人間とはそんなものではないというのがライルの意見。

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

アメリカのSF小説家、フィリップキンドレッド・ディックによる小説。人間とコンピューターの違いは共感力、感情移入力にあるとした話。人同士のつながりが機械越しになったり、希薄になる昨今。私たちは、共感力の薄い、配慮の足らない、機械みたいな人間があふれるような世の中が来ないようにしなくてはならない。