私の「面白い」

私の「面白い」

読んでくれたら嬉しい。共感してくれたらもっと嬉しい。でも私のために書きます。

JOKER(5)

 

その.10tears of a clown
 最初がトレイラーにもあった、泣きながらメイクするシーンだったのも驚きだった。あの印象的なシーンから更に悪くなっていくのか!!と。チャップリンの残した言葉に、「個人の出来事としてみたら悲劇だけど、一歩引いてみたら喜劇なんだ。」という旨の言葉がある。この映画、前半の不幸のシーンではホアキン・フェニックスの顔のドアップが連続で写されるのは、感情をどんどん移入していく仕掛けなんだと思う。後半になるにつれて、暴動や象徴的なシーンが増えてきて、共感と違った高揚感みたいなものに変わっていく過程は意図して作られた物だろう。
個人的な話になってしまうが、前の大学を辞めて陰々滅滅としてた頃、人が壊れてからその事に周りが気づくまでにはある程度の間がということを身をもって知った身としては、それを思い起こさせられるようでホント気持ち悪かった。怒りをあらわにするのはまだまともな証拠で、吐き出す機会を失ったり、孤立のせいで共感の存在を信じられなくなったりするとき、人って危ういってことが酷く伝わってきた。
この映画が悪いってことではなく、むしろ感情を揺り動かす良い映画ってことを言いたい。


その.11バットマン要素いらねぇ
 単体の作品として十分出来上がっている。それも現実味を持った話で。だからこそ、商業的な理由であるところのバットマンの要素は要らない。もちろん既知のものを使うことで説明を省くことにつながるという利点があり、この映画でもその効果は効果的に使われテンポを生み出している。だが、映画の世界が現実の話と感じたころに出てくるバットマンの本名や、バットマンで有名な例のシーンとかが無理やり(”無理やり”に感じるのはあくまで僕の感性によるものだが)挿入されていると一気にフィクションだと興ざめしてしてしまうのだ。
 だが、その要素こそがフィクションであることをハッキリ示すという結果になってる。この興ざめが「ジョーカーという存在はあくまで漫画上の事であるから、変に感化されて事件を起こさないように」というメッセージなのではないかとも思える。これはこれでマンガ原作映画の新しい形なのではないか。この現象自体がもう一種のジョークになっているというのは考えすぎなのか。