私の「面白い」

私の「面白い」

読んでくれたら嬉しい。共感してくれたらもっと嬉しい。でも私のために書きます。

身近な人の延長に大衆はいるのか(2)

だからといって現状の需要を見ることができなくてもいいかというと決してそういうことはないとは思う。流行と呼ばれるような大衆の需要が捉えられないというのは問題だけど、ミクロの自分が所属していると自覚している規模のコミュニティの需要を捉えられるようになることが流行を捉えられるようになる事の訓練として有効かというと、それは僕にはわからない。

「ブームは仕掛けることができるが文化は仕掛けることができない」なんて言葉を聴いたことがある。文化と呼べるものがどういう規模の事柄を意味するのかは分からないが、日本国内でも普段一緒に食事をとらない友人と食事をとると、行儀の意識とか、衛生感とか、異文化交流のような感覚に陥ることがある。ある意味、意識しないだけで家庭の教育なんてのは立派な”文化”と呼べる代物ではないのか。だとすると、文化とブーム、作り方の違いはあるということになるのではないだろうか?

ブームを作る力と文化を作る力と、どちらが難易度が高いことなのか。どちらが稼ぐ力に優れているのか。

 

でも、何はともあれ、僕はまず何かしらを提供できるだけの力を付けなくてはいけない。屁理屈を唱えるだけではなくて。